【味読】『失われた時を求めて8:ソドムとゴモラI』(プルースト著/吉川一義訳)

f:id:imamibookus:20210609013121p:plain

実験ー味読の可視化

5月初旬から1ヶ月かけて、『失われた時を求めて8:ソドムとゴモラI』(以下、本書)を読み終えた。この本を少しでもものにしたくて、本巻から、好きな頁はその端を折っていくことにした。すべて読み終わった後、それらを読み返してみる。自分の好きなものを集めるのは、心のなかの欠けているある部分を埋めてくれるような気がする。好きなものがもっと好きになり、愛でたくなる。さらに、一番好きなところを書写してみた。ところが、自分がいかに「なんとなく」読んでいたかを思い知らされる。書写した後、3時間ほど考え込んでしまった。ある一文がどうしてもわからない。真剣に読めば読むほど、考えれば考えるほど、いったいなにが書いてあるのか、よくわからなくなってくるのである。どうにか糸口を見出せないかと、思考を文章にして可視化することによって、さらに思考を促してみようと、本記事を書くにいたった。言うなれば、私の味読の可視化である。あらかじめ言っておくが、答えはない。これから書くことも、現時点の私が考えていることであるし、そもそもこの凝り固まった思考が可視化されたところで、他人にとって意味のあるものにはならないだろう。取るに足りないことかもしれないし、的外れなことを考えているのかもしれない。しかし、書く。この問題は、私にとっては切迫しているのだ。(また、翻訳された言葉をもとにした考察であることは言うまでもない。)

 

以下、本書の引用は、岩波文庫吉川一義訳を使用する。

 

思考

本書において私が書写した一番好きなところを下記に引用する。

 

私という人間全体がくつがえる事態というべきだろう。最初の夜、疲労のせいで心臓の動悸が激しくて苦しくなった私は、その苦痛をなんとか抑えながら、ゆっくり用心ぶかく身をかがめて靴をぬごうとした。ところがハーフブーツの最初のボタンに手を触れたとたん、私の胸はなにか得体の知れない神々しいものに満たされてふくらみ、身体は嗚咽に揺さぶられ、目からは涙がとめどなく流れた。私を助けに来て、魂の枯渇から私を救おうとしている存在、それは数年前、同じような悲嘆と孤独にうちひしがれ、私がすっかり自分を見失っていたときにやって来て、本来の私をとり戻してくれた存在だった、というのもそれは、私であると同時に、私以上の存在だったからである(中味以上であり、中味とともに私に運ばれてきた容器だった)。今しがた私は、記憶のなかに、私の疲労をのぞきこんだ、愛情にあふれ、心配げな、がっかりした祖母の顔、あの到着した最初の夜のままの祖母の顔を見たばかりだ。私がその死をちっとも嘆き悲しまないのを自分でも不思議に思い、それゆえ気が咎めていた、祖母と呼ばれていたにすぎない人の顔ではなく、シャンゼリゼで発作をおこして以来はじめて、意志を介さず完全によみがえった回想のなかで、生きたその実在が見出された正真正銘の祖母の顔である。この実在は、われわれの思考によって再創造されてはじめて、われわれにとって存在するものとなる(そうでなければ尋常でない戦闘に加わった人間はだれしも偉大な叙事詩人になってしまう)。(第8巻、pp.351-352)

 

この箇所は「心の間歇」と名づけられた章のはじめのほうの一節である。語り手である「私」は、バルベックという海辺の保養地に到着したばかりで、今回が二度目の滞在である。初めての滞在は祖母と一緒であった。その祖母は一年以上前に他界している。

 

まず、初めの一文である。非常に強力な出だしである。人間ではなく人間「全体」が、「くつがえる」出来事とはなにが起こったのだろうかと身を構える。この「全体」という言葉はその後の描写を引き立てる。その次の文は「私」の動作であるが、これは前回の滞在時にも同じような瞬間があり、それが再現されている。前回の滞在となる第4巻『失われた時を求めて4:花咲く乙女たちのかげにⅡ』での描写は以下の通りである。

 

自分の骨折りで私の手間がひとつでも減るのを無上の喜びとし、私の疲れた手足がすこしでもじっと休めるのをじつに嬉しく思っていたからであろう、祖母が私を横たえ靴を脱がせてくれようとするのに気づいた私がそれを押しとどめ、自分で服を脱ぐしぐさをしたとき、祖母は懇願するような眼で、ジャケットとハーフブーツの最初のボタンにかけた私の手を制止した。(第4巻、p.81)

 

「ハーフブーツの最初のボタンに手を触れた」ことをきっかけになにが起こったのか。それが次の激しく苦しく悲しい、見事な一文で明かされるのだが、ここで先ほどの人間「全体」がいきてくる。「私」の「胸」はふくらみ、「身体」は揺さぶられ、「目」からは涙が流れる。全身でなにかを受け止めているのである。それはほかでもない祖母であったわけだが、その次の文から、「存在」と「顔」という二つの連体修飾が一気に畳みかけてくる。原文も同じような構造なのかはわからないが、この連体修飾は、語り手の回想のなかで時間が行き来する様を強調する。「私」にとって祖母がどういう存在であった(ある)のか、どういう顔をしていた(いる)のか、前回の滞在時のあの瞬間の祖母が鮮明に浮かびあがってくる文章のなせるしかけである。そして、二つの括弧で括られて書かれている内容に注目したい。一つ目は、「中味以上であり、中味とともに私に運ばれてきた容器だった」である。直前の「私であると同時に、私以上の存在だった」の言い換えであると考えられるが、私はこの文に3時間費やしたのだ。いまでも判然としないが、誤読を恐れず、とにかく言語化してみたい。まず、「私であると同時に、私以上の存在だった」を理解するには、第4巻の下記引用が参考になるかもしれない。

 

祖母といっしょにいると、私がいかに大きな心痛をかかえていても。それがさらに大きな同情のなかに受け容れてもらえると私にはわかっていた。私のいだく心配ごとや意欲などは、祖母の心のなかで、私自身の生命を維持し成長させたいという、私自身のいだく欲求よりはるかに強い欲求に支えられていることもわかっていた。それゆえ私の考えごとは、迂回せずに祖母の頭のなかへと延びてゆき、たとえ私の頭から祖母の頭へと移行しても、その考えが息づく場所や人間が変わることにはならないのだ。(第4巻、p.80)

 

祖母の大きな愛を感じる一節である。それこそ、「私」以上の愛である。引用に沿って考えた場合、「私であると同時に、私以上の存在だった」というときの「存在」が属するのは過去の「私」である。しかし、私は、ここで立ち止まって考える。回想している現在の「私」が宙に浮いているような感じがするのである。なぜこの後にわざわざ括弧で説明を重ねているのか。それに「中味」と「容器」という言葉は前後のつながりから考えてもいささか唐突である。これが思考の出発点である。「中味以上であり、中味とともに私に運ばれてきた容器だった」という文をひとつひとつ紐解いてみたい。仮に「中味」=「私」とすると後半の「私とともに私に運ばれてきた容器」とはどういうことだろうか。「私に運ばれてきた」というからには、それ以前は「容器」が現在の「私」から離れたところにあったわけで、「私」の意志とは関係なく「私」に「運ばれてきた」ものであるが、その中味は「私」自身であるから、自分では制御することのできない「私」がいくつか存在するということになる。また、「容器」は「中味」を内包するから、「容器」と「中味」は異なる段階にあることも考慮に入れないといけない。「運ばれてきた」のはいつの時点のことだろうか。「私」という「中味」を内包する「容器」は、過去の「私」にとっての祖母に限定するものなのだろうか。このようなことを考えながら、該当部分の前後をもう一度読んでみる。すると、手がかりとなりそうな一節を発見した。

 

そうした歓びや苦悩が保存されている感覚の枠組みがとり戻されると、こんどはその歓びや苦悩が相容れないすべてのものを排除する力をそなえ、その歓びや苦悩を体験した自我だけをわれわれのうちに棲みつかせるのだ。ところで私が今しがたいきなり連れ戻された自我は、かつてバルベックへ到着したとき祖母が私の身につけていたものを脱がせてくれたあの遠い夕べ以降は存在していなかったので、祖母が私のほうにかがみこんだその瞬間へと私が合流したのは、ごく当然のことながら、その自我のあずかり知らぬ今日の昼間の直後ではなく、昔となんの断絶もなくーまるで時間には異なるさまざまな系列が並行して存在するかのようにーあの最初の夕べの直後になった。それほど長いことすがたを消していた当時の私の自我がふたたび私のすぐそばに存在したので、私にはその直前に祖母の発したことばさえ聞こえる気がしたが、それは空耳でしかなかった。(第8巻、pp.353-354) 

 

「容器」を「自我」と考えてみるとどうだろうか。語り手によると、「自我」は「私」自身であると同時に、無数に存在し、ある場合には消えるが、なにかのきっかけにより「なんの断絶もなく」、「私」に合流することができる。「容器」=「自我」の場合の「中味」は、その「自我」が保有している認識(上記の引用であれば、その瞬間の祖母の姿や「私」の心情)と考えることができる。もう一度、問題の文をみてみよう。「中味以上であり、中味とともに私に運ばれてきた容器だった」に、「自我」と「その自我が連れてくる認識」を当てはめてみると、少しは視界が良好になってきたのではないだろうか。あらためて、「私であると同時に、私以上の存在だった」を考えてみよう。祖母は過去の「私」の「自我」のなかに存在し「私であると同時に」、「自我」という「容器」により現在の「私」に再認識されうる、単なる回想のなかの存在以上の存在であるということができる。これは、初めの引用の終盤にでてくる「この実在は、われわれの思考によって再創造されてはじめて、われわれにとって存在するものとなる」という文につながる。回想するだけでは「私」への愛情に満ちた祖母は不在のままなのである。回想のなかで、祖母は「その実在が見出され」なければならない。その見出す行為は「思考」である。ここで、二つ目の括弧の「そうでなければ尋常でない戦闘に加わった人間はだれしも偉大な叙事詩人になってしまう」という補足を考えてみる必要がある。「尋常でない戦闘に加わった人間」というのはなにを指すのだろうか。思考をともなわない回想を否定していると仮定すると、特異な体験をした人間ということになろうか。回想だけでは詩人にはなれない、つまり「思考」の重要性が強調されている。そもそもこの一連の出来事は、二十頁ほど先で「無意識的回想」とよばれていて、「私」の「意志を介さず」に起きた事であり、有名な紅茶とマドレーヌの挿話を彷彿とさせる、プルーストの筆の見せどころのようなところであるが、最後の最後で、その「無意識的回想」自体に価値があるのではなく、その回想のなかで現在の「私」が「思考」によって「完全に」「再創造」される存在を見出すことで「私」の心が揺さぶられたのであると指摘しているのではないかと思う。長くなってしまったが、これまでみてきたように、「無意識的回想」のなかで、祖母の死後はじめて「正真正銘の祖母」の存在を見出した「私」は、祖母の死を理解ししばらく悲嘆に暮れるが、実はその悲嘆はみるみる薄れていき、ごく短い時間で忘却の海へと沈んでいく。冒頭にこの文章は「心の間歇」という名の章であると言及したが、プルーストは当初、「失われた時を求めて」ではなく「心の間歇」を作品のタイトルとして考えていたようである。祖母の「存在」を一本の時間軸上で捉えるのではなく、現在の「私」が過去と現在を行き来することによって激しく揺さぶられる心を描いた印象的な挿話であるとともに、この作品にとっても重要な挿話なのかもしれない。

 

おわりに

以上のように、私の思考をつぶさに文章にしてみたのだが、書くことによって少しは目の前の霧が靄くらいにはなったのではないかと思う。文章を味わうことに終わりはない。だからこそ読み続ける。それを存分に許してくれるのがプルーストの文章なのではないか。

 

【参考文献】

プルースト吉川一義訳(2012)『失われた時を求めて4:花咲く乙女たちのかげにⅡ』岩波書店.

プルースト吉川一義訳(2015)『失われた時を求めて8:ソドムとゴモラⅠ』岩波書店.