【書評】『プルーストを読むー『失われた時を求めて』の世界』(鈴木道彦著)

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プルーストを読むー『失われた時を求めて』の世界』

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3月末から4月末にかけて、2002年に集英社新書から刊行された鈴木道彦先生のプルースト関連本を読んだ。約1ヶ月間、本書を読みつつ、いくつか考えることがあったので、読みどころと感想を綴る。

 

「最高のプルースト入門」?

本書は、1996年から2001年にかけて集英社にて『失われた時を求めて』を日本語に完訳した鈴木道彦先生が書いており、完訳直後の2002年に刊行されている。日本では井上究一郎につづいて二人目の個人完訳である。いまもなお鈴木訳を愛読している読者もいるだろう。現在、私は岩波文庫吉川一義訳で読み進めていて、鈴木訳には触れたことがないが、鈴木先生が書かれた関連本ならば読んでみたいと思い、手にとった次第である。

 

本書の帯には「最高のプルースト入門」と大きく書かれている。僭越ながら、それはどういう点で「最高」と言えるのだろうか。少し疑うような気持ちを持ちながら頁をめくっていたのだが、簡潔にいうならば、本書はプルーストの自画像、特に輪郭を描く試みであるのではないかと思う。その意味においては、素晴らしい入門書である。しかし、『失われた時を求めて』を早急に知りたいと思って手にとると、結果的には『失われた時を求めて』を知ることにもなるのだが、本書はあくまでもプルースト論の一つであるため、勘違いあるいは思い込みを助長する危険性があるのではないかと思ったのが、今回書評をしようと思ったきっかけである。

 

主要な登場人物といくつかのテーマの紹介

本書の読みどころの一つとして、『失われた時を求めて』の主要な登場人物といくつかの重要と思われるテーマがわかりやすく紹介されている点が挙げられる。

 

本書は、何よりもまず『失われた時を求めて』にまだ接したことのない読者のために、主要ないくつかのテーマを簡単にスケッチしながら、この作品を紹介しようとしたものである。

 

鈴木先生自身が仰っているとおり、『失われた時を求めて』を読んだことのない人を想定しているため、大長編作品の読みどころが集められていて非常に密度の濃いものになっていながら、簡潔である。『失われた時を求めて』からの引用は、鈴木先生ご自身の訳で、ふんだんに引用されているので、鈴木訳をのぞいてみたい読者にもよいのではないかと思う。

 

語り手=プルーストではない

前項で『失われた時を求めて』の読みどころが集められていると書いたが、ここで注意しなければないのが、本書はあくまでもプルースト論であるということである。鈴木先生は、『失われた時を求めて』を「虚構の自伝」であると述べている。「虚構」とは「これだけを自立した一つの世界のように読むことのできる虚構」である。さらに「プルーストの実人生を知ることが不可欠であるとは思わない」「書かれている事柄から作者の実生活上の「事実」を想像することは、多くの危険を伴う」とまで仰っている。つまり、作品から作家に向かう方向のあらゆる指摘に警鐘を鳴らしている。その上で、本書は、作家プルーストの輪郭を浮かびあがらせていく手段として作品を参照するような構成になっている。その作品には、『失われた時を求めて』を嚆矢として、それ以前に書かれた『ジャン・サントゥイユ』や「サント=ブーヴに反論する」、手紙、エッセイ、インタビューにいたるまで幅広くプルーストの声が含まれている。このような背景には、鈴木先生の以下のような考えがある。

 

失われた時を求めて』が虚構の自伝であるということは、語り手だけでなく、その他の登場人物も含めて、この小説に作者が自分の体験、知識、思想を盛り込んでいるということであり、この作品全体が巨大な自画像を構成しているという意味をも含んでいるのである。

 

語り手=プルーストではないという主張と、作家を深く知るための作品の引用は、境界線が極めて曖昧なものであるが、矛盾するものではない。鈴木先生が「虚構だからこそ、これは作者の真実を告げるものになったのである」と仰っているのは納得のできることであるし、上記の引用も、実際そういった部分があるのだろうと思う。しかし、先生の流れるような筆運びも相まって、却って「語り手=プルースト」という思い込みを助長してしまう危険性を感じた。プルーストと『失われた時を求めて』の登場人物に見出す共通点の指摘は、一般読者、とりわけ『失われた時を求めて』を読んだことのない人が、『失われた時を求めて』の最初の手がかりとして読んだ場合、いっそう誤解を生んでしまうのではないだろうか。たった一つの方向の違いであるが、慎重に読まなければならないところであると思う。

 

このような疑問から、作家を知ることは小説の純粋な愉しみを増す一助となるのだろうかということについて考えを巡らせていた。いまだ結論はでていないのだが、まずは作品と向き合う時間を大切にしたいと思う。

 

第十章、終章の読みごたえ

本書の読みどころとしてもう一つ挙げておきたいのが、第十章「芸術の創造と魂の交流」と終章「読書について」である。

 

第十章「芸術の創造と魂の交流」は、語り手がなぜ『失われた時を求めて』を書くに至ったかに迫る非常に読みごたえのある章である。この章では語り手=プルーストとして考察されている箇所が多く注意が必要だが、『失われた時を求めて』の核心についての一つの解釈である。最後はプルーストの臨終の時のデッサンで印象的に締めくくられている。この章は作品を通読した後も、繰り返し読みたいと思う。

 

終章「読書について」は、たった5頁であるが、プルーストの読書論のエッセンスが紹介されていて、興味深く読んだ。『失われた時を求めて』からの引用になるが、共感したところがあったので、ここでも引用したいと思う。

 

一人ひとりの読者は、本を読んでいるときに、自分自身の読者なのだ。作品は、それがなければ見えなかった読者自身の内部のものをはっきりと識別させるために、作家が読者に提供する一種の光学器械にすぎない。

 

おわりに

本書は、プルースト論としては、一筆書きのプルーストの輪郭が見えるような鮮やかな一冊であった。しかし、『失われた時を求めて』のきっかけとしては、上記に述べてきたような危険性も含まれているので、慎重に丁寧に読まなければならない。

 

「語り手=プルーストではない」の項でも述べたが、まずは作品そのものと真摯に向き合うことを大切にしたいと思う。プルーストも言っているではないか、「自分自身の読者」であると。関連本は、いくら読んでも、どのように読んでも、そのようにはならない。当然のことであるが、作品そのものではないからである。はからずも、今回本書を読んでそう思ったのである。

 

【参考文献】

鈴木道彦(2002)『プルーストを読むー『失われた時を求めて』の世界』集英社.