再読のできる本を発見するよろこび

 

私の好きな『モンテ・クリスト伯』を翻訳した山内義雄の「二十余年折にふれ坐右はなれぬ書物の一つ」*1として挙げられるマルセル・プルーストの『楽しみと日々』は、1896年にプルーストが初めて世に出した作品集である。二十代前半に書かれた短編小説、散文、詩をまとめたもので、その詩の一部に曲をつけたレーナルド・アーンの楽譜、マドレーヌ・ルメールの挿絵、アナトール・フランスの序文に飾られた初版豪華本は、プルーストが『失われた時を求めて』を書いたことによって発掘されるまで、長らく読者が限られていた。

ガリマール社から普及版が刊行されたのはプルーストの死の二年後、1924年である。ガリマール社といえばアンドレ・ジッド。「スワン家のほうへ」を読みもせずに出版を拒否したのも、『楽しみと日々』再評価の一役を担ったのも、ジッドであった。ジッドはプルーストの追悼特集に「『楽しみと日々』を読み返して」という批評を寄せた。『楽しみと日々』のなかに、当時まだ刊行途中であった『失われた時を求めて』を見出し、「後になってあの長大な小説で輝かしく咲き誇るものはみな、この本の方では発生期の姿で示されている」*2と評している。たしかに『失われた時を求めて』で描かれるいくつかのモチーフを見つけることは容易く、それを蕾や萌芽だと言いたくなるのはもっともだ。いま、私たちが文庫で『楽しみと日々』を読めるのも、きっと彼のおかげである。ありがとう、ジッド。

それでも、一介の読者である私なんかは、『楽しみと日々』はそういう読み方をしていて愉しめるものなのだろうかと、つい言いたくなる。プルーストに「長大な」という前置きを改めたくなるほど、感性と言葉を極めたプルースト色の作品群のように思えるからだ。若さのもつ限りのない好奇心に適した容れ物としての短編、散文、詩であり、それらは二十歳のプルーストにとって最良の選択だった。この容れ物は、『失われた時を求めて』には求められないある種の緊密さと大胆さを生み出し、一文一文のつながりを丁寧にたどっていくと、あっと驚く着地に気づくだろう。人称、視点、題材の豊かさは、万華鏡のように予測の効かない模様を次々と映し出し、プルーストの眼を通して見る世界の複雑さに 、表現としての繊細な言葉に心動かされるだろう。

レーナルド・アーンは「散歩」という回想録に、長い間じっと薔薇を見つめるプルーストのことを「自然と芸術と人生と完全に交感する神秘の瞬間」*3と書いているが、このようなプルーストの態度は『楽しみと日々』から一貫している。「悔恨、時々に色を変える夢想」という『楽しみと日々』後半を占める三十篇の散文のエピグラフは、その堂々とした告白ではないかと考えられる。

 

「詩人の生き方は単純でなくてはならぬ。この上なくありふれた影響にも喜びを覚え、陽気さは一筋の日の光の果実、霊感を得るのに大気があればよく、陶酔を覚えるには水で充分というふうでなくてはならぬ」

エマソン*4

 

『楽しみと日々』を愛読していた山内義雄は、この「悔恨、時々に色を変える夢想」のいくつかを翻訳している。ここに敬意を込めて、私の特に好きな作品の書き出しを、私が通読した岩波文庫版の岩崎力訳とならべてみたい。書き出しの緊張感は充分に伝わるだろう。

 

「一 チュイルリー」

今朝チュイルリーの庭で、日の光は、通り過ぎる影にたちまち軽いまどろみから醒める金髪の少年のように、こもごもすべての石段で眠った。(岩崎力訳)*5

「テュイルリー」

けさ、テュイルリーの庭の中、太陽は、ふとした影の落ちるのにも忽ち假睡(うたたね)の夢やぶられる金髪の少年といつたやうに、石の階段(きざはし)の一つびとつのうへに輕い眠りを貪つてゐた。(山内義雄訳)*6

 

「二 ヴェルサイユ

たまさかの日の光にもはや暖をとるすべもなく力尽きた秋が、一つまた一つ、色を失っていく。(岩崎力訳)

ヴェルサイユ

衰へはてた秋は、今は稀にさす日射しにも暖めてもらへず、その彌果(いやはて)の色彩を一つ一つに失つて行く。(山内義雄訳)

 

「六」

野心は栄光よりも人を酔わせる。欲望はすべてを花と咲かせ、所有はすべてをしおらせる。(岩崎力訳)

「★」

野心は光榮よりも人を醉はす。希望はあらゆるものを花咲かせ、所有はあらゆるものを萎ませる。(山内義雄訳)

 

「八 聖遺物」

できれば友達になりたかったのに、ただの一瞬も私と話を交わすのに同意しなかった女性の持ち物で、売りに出されたものすべてを私は買い取った。(岩崎力訳)

「かたみ」

わたしはかつてその女(ひと)の友となりたいとねがひ、しかもただ一ときの語らひさへゆるされなかつたその女(ひと)の、持ち物すべての賣りに出されたのを手に入れた。(山内義雄訳)

 

「十九 田園を吹き渡る海の風」

庭を、小さな林の中を、そして野面を、風は狂ったように激しく徒らに吹き荒び、日光の一斉射撃を吹き散らし、最初降り注いだ雑木林の枝々を激しく揺さぶって日光を追い出し、きらきら光る藪まで追いかける。(岩崎力訳)

「野にそよぐ海風」

庭の中、小さな林の中、野面を越えて、風は、狂ほしい、そして甲斐ない力を傾けながら、しぶき注ぐ日の光を吹き散らさうとする。それは日の光が最初に降り注いだあの輪伐林の枝々を烈しく揺つて、今やそれがきらきら光つてゐる藪かげの方へ逐ひ立てようとしてゐるのだ。(山内義雄訳)

 

先日のプルースト精読講座*7では、講師で『失われた時を求めて』訳者でもある高遠弘美先生が、『楽しみと日々』を「(『失われた時を求めて』のための)周囲を巡っている、それぞれ光り輝く衛星群」と表現された。現在の私たちは、その天体図を眺めることのできる幸福な観測者である。『楽しみと日々』は、『失われた時を求めて』という存在なしには照らされることのなかった衛星かもしれないが、ただそこに描かれるものに想像力あるいは創造力をはたらかせ始めから最後まで言葉を渡り歩く愉しみは、どちらもそう変わらない。もっといえば、両方を知ることによって世界はより多彩になっていく。プルーストの文章は再読するたびに照射される角度が微妙に異ってくる。なぜなら、観測者が生き続ける限り、時間によって観測点が変化していくからだ。自分に飽きることが難しいように、プルーストの作品は飽きることと程遠いようだ。

*1:山内義雄『遠くにありて』1995年、講談社文芸文庫

*2:プルースト全集 別巻』1999年、筑摩書房

*3:同上

*4:プルースト岩崎力訳『楽しみと日々』2015年、岩波文庫

*5:同上(以下、岩崎訳は同書からの引用)

*6:山内義雄『フランス詩選』1964年、白水社(以下、山内訳は同書からの引用)

*7:NHKカルチャーによるオンライン講座「訳者とたのしむプルーストスワンの恋」」