【感想】高遠弘美先生連続講座「『失われた時を求めて』で挫折しないために」第3回(最終回)

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親しみをもって語りかけてくださった先生

一般財団法人出版文化産業振興財団(JPIC)がオンライン上で開催する高遠弘美先生の連続講座「『失われた時を求めて』で挫折しないために」第3回(最終回)を受講したので、感想を綴る。

 

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最終回となる今回の講座タイトルは【なぜ『失われた時を求めて』を読むのか】である。

 

その名のとおり、講座の大部分は、高遠先生が『失われた時を求めて』を読む20の理由と、そのひとつでもあるプルーストの文体的特徴「引用」をOrphée(オルフェ/オルフェウス/オルペウス)神話の切り口から読み解く試みに時間が割かれた。

 

文字びっしりの読み原稿、縦横無尽の資料に、どの回にも増して先生の気合いが感じられる。全3回の講座を通じて言えることだが、先生は受講者の顔が見えないにもかかわらず、常に偽りない真心で、親しみをもって語りかけてくださったように思う。先生が「問題発言」と念を押したうえでのいくつかの問題提起に加え、なにより先生ご自身のことを惜しみなく話してくださったことに敬意を表し、心から感謝したい。

 

今回の感想は、時間が割かれた部分ではなく、講座前半に述べられたことを中心に書くことにする。一見、目を引く言葉が並ぶが、それは『失われた時を求めて』をめぐる様々な先入観があるという前提のもと、講座の趣旨を踏まえて発言されたものであると思われる。奇を衒うものでは決してない。有料講座なので情報を制限しつつ、プルーストを手にとる人がひとりでも増えることを願って書きたいと思う。

 

ちなみに、講座自体は終了しているが、見逃し配信にて録画された講座を視聴することができる。4月いっぱい申し込めるようなので、今からでも間に合う。プルーストにほんの少しでも興味がある人には3回全ての講座の受講をおすすめしたいが、あえて各回の特徴を勝手ながら考えてみると、「プルースト読んでみようかな」の人には第1回を、「プルースト読むぞ」の人には第2回を、「プルースト挫折したけど再挑戦してみようかな」の人には第3回を、というように少しずつ内容の難易度が増している気がするので、参考にしていただければと思う。

 

(以下、括弧内は高遠先生の発言を引用したものである)

 

「読まなくてはいけない本など、この世には存在しない」

今回の講座は「読まなくてはいけない本など、この世には存在しない」という言葉から出発した。なんと力強い言葉だろうか。いくらかでも『失われた時を求めて』に興味があって受講しているであろうわれわれの意表を突く発言であったかもしれない。しかし、この問いからはじまったことにより、自身の読書という行為そのものについていま一度考えてみた人は多かったにちがいない。「読書は個人的な営為」と繰り返し仰る先生の考えがよく表れた言葉である。考えてみれば、至極まっとうな事実ではないか。それでも「なぜ」読むのかという問いは、そっくりそのままひとりひとりの読者が持ち帰るべき課題である。ここで、印象に残った先生の言葉を引用したい。

 

プルーストを全巻最後まで読んだ瞬間に、人間が変わるわけではありません。ただ、明らかに何かが変わりつつあるという、そういう予感が生まれてきます。

 

この言葉は、特にこれからプルーストを読んでみようと思っている人、読んでいる途中の人に大いに励ましになる。プルーストを読んでも読まなくても人は変化しつづけるものであるが、プルーストを読んだ結果、起こる変化がきっとあるはずで、それは予感をともなうようである。読んだ後でしかその変化に気づけないからこそ、この予感は希望になる。しかし、その予感が生まれてくるか、豊かな実りが訪れるかどうかは読者の向き合い方次第ではないかと思う。先生の言葉を借りると「プルーストの文章そのものを虚心坦懐に味わい愉し」むことがヒントになるであろう。そのうちに、作品と自身が交わる瞬間がやってくるはずだ。再び、先生の言葉を拝借する。

 

プルーストを読むことが意味をもつのは、[中略]読者の生きる時間とどこかで強く結びついているとき、プルーストの織りなす言葉の世界が琴線に触れることになる。

 

自分なりのPages Choisies

プルーストが好きになる、一つの実践的な方法として「Pages Choisies」(英語では"Selected pages")という提案があった。「自分の好きなところを集めたもの」つまり『失われた時を求めて』を読んでいくなかで気に入ったところを貯めていこうというものである。これをすると「絶対にプルーストが好きになる」と思うと仰るのだから、ぜひやってみよう。私も普段からこれはと思った言葉をメモするようにしているが、メモが散乱していてなかなか読み返すことがない。これを機に、一つにまとめていつでも手にとれる状態で残していきたいと思う。長大な作品だからこそ、お気に入りを集めていく愉しみがある。慣れてくれば、なぜその部分が気に入ったかを書き留めておくのもいいかもしれない。

 

「愛読書を持たない読書家は結局は貧しい読書家に過ぎない」

「『失われた時を求めて』は再読するほど心のどこかにそのエッセンスが残ってゆく小説」であると仰る先生は、『失われた時を求めて』を何度も通読していて、その言葉は無論信頼できるものであるが、もう一歩踏み込んで、われわれにこう問いかける。

 

「愛読書を持たない読書家は結局は貧しい読書家に過ぎない」

 

あなたは愛読書を持っているだろうか。私は、まだ持っていない。「本を何冊読んだかを競ったり自分の目標にしたりするのは莫迦げている」と。「読書家」と自負するほど本に親しんできたわけではないが、それでも耳が痛かった。これは冒頭の「なぜ」本を読むのかという問題にもつながるが、この「なぜ」の方向が自分のほうに向いていないから陥ってしまうのだと思う。何かのために、外面のために読んでいては、言葉の世界は広がってゆかない。貧しい読書のままである。まだ愛読書を持たない私は、いつか見つかることを心待ちにしながら読んでいこうと思う。もう数字など気にしない。自分のためだけに、読もう。

 

「伸縮自在な語り手」

高遠先生は、ご自身の『失われた時を求めて』を読む理由を20個挙げられたが、そのなかから印象に残ったものの一つを紹介したい。「伸縮自在な語り手の現れ方を愉しむ」である。『失われた時を求めて』の主人公である語り手には、作中に年齢に関する記述がなく、研究の成果から推測はできるものの、一読者にとってははっきりとしない。しかし語り手の年齢を突き止めようとすることはあまり意味のないことのようである。先生は「作中に明白に書かれているわけではない年代を確認しながら読む必要はほとんどない」と仰って、語り手の年齢がわからないことがむしろ作品の美点になっていることを指摘された。

 

いろんな挿話のいろんなエピソードのなかで、それを読んでる読者は、それぞれの年齢にあわせて、また読むときの年齢によって、自分を投影したり、投影されたりということの関係になっていくと思うんです。

 

語り手の年齢がはっきりとしないからこそ、語り手は伸縮自在となり「読者ひとりひとりの典型」となりうる。語り手の話に耳を傾けるうちに、語り手と自分が重なり、自分の経験が自ずと想起されていく。ときには痛みをともなうこともあるだろうが、そんな体験の積み重ねが貴重であることを確認するとともに、その関係を築けるだけの作品の懐の広さを再認識した鋭い指摘である。

 

おわりに

なぜ『失われた時を求めて』を読むのか。その「なぜ」の方向が自分のほうを向いていれば、その理由はなんだって構わないと思う。ただし、「虚心坦懐に」「言葉に素直に向かいあう」ことを忘れてはいけない。ファニー・ピション著・高遠弘美訳『プルーストへの扉』の書評記事でも触れたように、私が『失われた時を求めて』を読む最も大きな理由は、私の失ってしまった時間を理解し、よりよく生きていくためである。言い換えれば、自分を理解することでもある。高遠先生は「もしプルーストに気が向いたときは、立ち寄ってくだされば」と控えめに仰っているが、いま何かしら困難な状況にある人ほど、手にとってほしいと願う。私にとっては一時的な逃げ道でもあり、もう一度前を向く力にもなったからである。先生の「焦らず」「じっくり」「ゆっくり」という助言を携え、これからも少しずつ読んでいこうと思う。

 

最後に、高遠先生と、この講座を企画してくださった方にあらためて感謝いたします。純粋な気持ちでノートを開いて机に向かい、一言一句見逃さぬよう必死になったのは院生以来、数年ぶりのことでした。一日一日が目まぐるしく過ぎていく子育ての最中、何かに落ち着いて取り組むことが新鮮で、今後もこのような時間を作って大切にしていきたいと思うとともに、娘との時間もいっそう愛しく感じるようになりました。このブログを通じて高遠先生とつながることもでき、とても充実した講座となりました。誠にありがとうございました。