選び取った現実に生きること──村上春樹『街とその不確かな壁』を読む

 村上春樹の小説には、「いったいこれはなんだろう」と呟かざるえない永遠の問いがいくつも散りばめられている。最新刊『街とその不確かな壁』もまた、これまでの作品と同様に、首を傾げてしまう難題が揃っている。読者は、それらの理解を求めていないようにみえる事柄に対して、どのように向き合うべきなのだろうか。そもそも、「ああ、すっかり理解できた」と思える物語なんて存在しないだろうが、少しでも近づこうとする努力は必要であるというのが私のひとつの指針である。

 『街とその不確かな壁』は「街と、その不確かな壁」という1980年に発表した中編小説を書き直したものである、と著者自身があとがきで詳らかにしている。ご本人が言う「それなりの年季を積んだ専業作家」、の一つの決着であると考えることができるだろう。しかし、村上春樹の長編小説を好んで読んできた私の第一印象は芳しくなく、総体的に言葉の力が弱まっているように思えてならない。実体のない言葉、とでも言えるだろうか。主人公の意思や行動のほうが光に照らされ、言葉が影になっているような気がするのである。そう感じるのは、私のほうに問題があるのかもしれないし、やはり何事も、簡単に、決めつけてはいけない。

 『猫を棄てる』『一人称単数』に連なるひとつの主題として、「〇〇であったかもしれない自分」という大きなテーマがあると思う。現在の自分は、偶然あるいは選択の結果であるという見方である。『街とその不確かな壁』の第二部の冒頭はこういった文章で始まる。

 

その川の流れが入り組んだ迷路となって、暗黒の地中深くを巡るのと同じように、私たちの現実もまた、私たちの内部でいくつもの道に枝分かれしながら進行しているように思える。いくつかの異なった現実が混じり合い、異なった選択肢が絡み合い、そこから総合体としての現実が──私たちが現実と見なしているものが──できあがる。

 

第一部の最後に、高い壁に囲まれた街で自分の影と決別した直後の文章である。ここから、街とは別のもう一つの「現実」が展開されていくのだが、読み進めていくと、 外の世界で「私」の代わりに「立派に」生きていたのは、主人公の影のほうだったという反転が生じていることが一応あきらかになる。そして最終の場面で、街に残ったほうの「私」は自分の影が生きる世界に復帰する決断をする。どちらが本体でどちらが影かという問題は登場人物らによって様々な形で提起され、そこに結論はない。

 自分が選んだ世界と、選ばなかった世界。その二つの世界、あるいは本体と影は、まったく別なものというより、互いに補完しあうような曖昧な関係にありそうだ。ある選択をすると、世界が微妙に変化する。時間が存在する世界では、絶えず「〇〇であったかもしれない自分」が発生している。そのような状態において、唯一、人間の記憶あるいは心は、それらの「かもしれない」を見つめることができる。 つまり、「現実」の自分は、膨大な「かもしれない」を抱えて生きているということになる。そう考えると、時間とともに変化しつづける個体が何十億と存在する世界=「現実」がいかに不確かなものかと感じられる。それでも、ひとつの意思というのは、ひとりの人間にとって、やはり尊重されるべきものであり、結果としての「現実」を閉ざさない可能性であるのかもしれないと思う。

 少しは、物語に近づけただろうか。