海と机上を定点観測

 

渡泰八年八ヶ月。ようやく自分だけの机と椅子ができた。

 

目の前には穏やかな海が拡がっている。近くに大きな港があって、部屋の窓の正面はちょうど入港を待つコンテナ船やバルク船の溜まり場になっている。クレーンの首を右に左に据えた大型のコンテナ船はその首を海中でクロスさせ、十数メートル下の海底に固定してしまったかのようにびくともしない。用心して間をすりぬけていく小型船が立てる波にも、南国の灼熱の太陽にも、水平線に堂々と沈んでいく満月にも平静を保って、その時を待っている。晴子さんは「ジラフが大きな稲荷寿司を啣え込む」と書いたが、私の目の前のジラフは立ったまま寝ているらしい。去年、博多港に一基の巨大なジラフが現れたが、玩具のように現実味がなくなって、なんだか頼りない感じがする。晴子さんの比喩は、彼女が徹底的に現実を見ることを前提とするから現実と想像のバランスが絶妙で、私の頭のなかではなんの疑念もなくジラフがせっせと稲荷寿司を運ぶ。もはや、それとしか思えなくなる。そのうえ、それらは彼女の生活のなかから紡がれた言葉だから、日本語の奥行きを拡げ、言葉の確かさを実感させる。ああ、愉快なこと、この上なし。こういう言葉の世界の妙技を、私はどれだけ待ったことだろう。『欧米の隅々:市河晴子紀行文集』は『欧米の隅々』(1933)と『米国の旅・日本の旅』(1940)の抄本である。タイにいる私がいつの日か、絶版になったそれらの原本を手にする日は来るのだろうか。

 

 

ある日の暮色。一日中眺めていてもまったく飽きない海。

 

この海は、私の生活をすっかり変えてしまった。朝が苦手なはずの私が、引っ越してきてから二週間、毎朝日の出を見届けている。そういえば、本厄がもうすぐ後厄に移る。駆け込みでとびっきりの変化をもたらしてくれた本厄様、ありがとうと言っておく。

 

 

最後に、今週の机上観測。

 

今年はこれが読みたいあれも読みたいと考えるのは、考えているその時間すら愛おしくって際限がない。睦月のささやかな愉しみ。私の新しい習慣は、寝起きにまず何篇かの詩を読むこと。からっぽの頭が一字、一字、文字を吸収していく感じが心地よい。昼や夜の雑多な頭で読むのとは違う。今は、中也の『在りし日の歌』を読んでいる。冒頭でも引用した『欧米の隅々:市河晴子紀行文集』は、昨日の早朝に最後のページをめくって静かに裏表紙を閉じた。胸がいっぱいで、しばらくはこのまま机上に置いておこうと思う。素晴らしい書評が沢山でているが、私だって書きたい。晴子さんのために、自分のために。