本を読むことは、諦めることから始めなければならない、とはまだ言いたくない

 

一月十九日は、私の誕生日だった。本厄から後厄に移り、母から念を押して「まだ厄年なので」と注意を受けて早々、体調を崩してしまった。これが後厄の洗礼なのかしら、と気が沈んでいたが、いまは回復し、机上の薔薇を眺めている。窓を全開にすると海風が薔薇の香りを運んでくれて、とってもさわやかな気分。

 

 

眼の前のこの海と過ごす一年をぼんやり考えていると、つい空想が膨らむ。広くて深い海ばかり見ていたら足が地を離れてしまう、まだ厄年なのに、なんて自分を諌めたりしながら、またぼうっとする。年始に投稿した記事「2022年に読んだもの - 苦海日録」にも書いたが、石牟礼道子さんは私にとって既に特別な存在になっている。海の側で、道子さんの文章をもっと読みたい。藤原書店から全十八巻の豪華な全集がでているが、私は初版本を探す。どんな作家だってそうだろうが、とりわけ道子さんは時代と闘った人、書くことで息をしていた人だと思うから、作品が世に出たときの状態で読むことに価値があるのではないだろうか。とはいえタイにいるから、古書店に足を運ぶことはできない。これは時間がかかりそうな旅路だ。ちょうど先週、筑摩書房から『十六夜橋』の文庫が復刊した。初めの一冊は『十六夜橋』にしよう。道子さんの状態の良い初版本は、当時の定価を優に上回る。自分から自分への誕生日プレゼントという口実。

 

 

今週の机上観測。読みたい本は溢れているが、私は本を読むのが本当に遅い。その最も大きな理由は、恐怖ではないかと思う。読みこぼしてしまうことへの恐怖。さらさらと読んで、その言葉が放つ力、美しさ、輝きを逃してしまっては、本末転倒になる。その言葉に十の力が秘められているとしたら、十とはいかなくても、八や九を掴みたいと考えるのは、欲張りなのだろうか。そんなことを考えながら『戦争と平和』を読んでいるが、この本は貪欲な私を真っ向から試している。私の思惑はまたしても一冊の本の前に撃沈する。一文一文、一文字一文字に頑なになっていると、それはそれで、木を見て森を見ず。どうしたらよいものか。何事もバランスが大事よね、とありきたりな考えに落ち着く。本を読むことは、諦めることから始めなければならない、とはまだ言いたくない。