再読に誘う批評は貴重なプリズムである

 

再読を促してくれる文章は、どんな種類のものでも貴重である。

 

この数週間、私のワーキングメモリはまったく機能しなかった。文字は私の眼の前にあり、ひと文字も逃さずに追っているが、一行前に書いてあったことがもう思い出せない。もうすぐ三歳になる娘の生まれて初めての風邪にあたふたしながら、そのとてもしぶとい風邪をもらってしまったからだ。それでも、これだけはとしがみついていたものが、三つある。『失われた時を求めて』、『ナボコフの文学講義』、ベンヤミンの「プルーストのイメージについて」である。この三つを、唸りながら、朦朧としながら、行ったり来たりしていた。どれも文章そのものに再読に耐えうる力があり、そのうえ『失われた時を求めて』の再読へと誘ってくれる。

 

失われた時を求めて』第一巻の再読を始めてから十ヶ月が経つ。2022年6月から始まった高遠弘美先生のプルースト精読講座を受講していて、その進度に合わせて読んできたが、今月末の講座で第一巻を読み終える。これだけ長大で緻密な作品であるから、何度読んでも新たな発見が尽きることはない。ナボコフは「良き読者と良き作家」の中で「ひとは書物を読むことはできない、ただ再読することができるだけだ(「読む」に傍点)」と言ったが、高遠先生の言葉にもプルースト再読の秘密があるようだ。

 

さうした再読を重ねてゆくこと。ひとたび読んだ後はそのやうな再読を通じて、風に吹かれて散り初めた桜の花片がいつの間にか道や水面を覆ふやうに、自らの内面にプルーストの世界の断片を一つ一つ敷きつめてゆくこと。そこにこそ『失はれた時を求めて』といふ長大な作品を我が物とするすべがあります。

高遠弘美先生(@Thouartmore)のTwitter3月24日投稿より)

 

完全に「読む」ことはできないのだから「作品を心や頭で読まず、背筋で読む」ナボコフの再読と、自分と共鳴した作品世界の断片を集めていく再読は、両立する。どちらも細部に、言葉そのものに、極めて敏感であろうとするからだ。ナボコフプルースト講義を読めば、細部にこそ作品の核心に迫る構造を見出せることがわかるだろう。どちらの再読も、大切にしたい。

 

筑摩のプルースト全集別巻に収録されているベンヤミンプルースト論「プルーストのイメージについて」は、二段組で十ページの短評である(三章のうち初めの二章のみ訳出)。素材のわからない架空の美酒のような文章だと思う。第一章の冒頭は『失われた時を求めて』をなぞるように読者を夢に現に彷徨わせる。『オデュッセイア』のペーネロペイアの糸に導かれて作品の本質が明らかになると、織物のモチーフは古代ローマ人を通ってプルーストのエピソードにつながるが、その糸は最後までベンヤミンの手の中にある。無駄がなく、的確で、美しく、粋である。その洗練された流れは、読者に微かな酔いを纏わせる。引用の上手さも逃してはいけない。ジャン・コクトー、マックス・ウーノルト、クレルモン=トネール公爵夫人、レオン・ピエール=カンのそれぞれの文章は、その場にふさわしく注がれる。とりわけコクトーの「夜と蜂蜜の法則」の一節は、引用元の「マルセル・プルーストの声」をどうしても読みたくなるほど魅力的だ(東京創元社ジャン・コクトー全集第四巻』に収録)。一滴でも触れるとやめられなくなる文章、その秘技を求めたくなる文章、そして必ず『失われた時を求めて』を再読したくなる文章である。(しかし、告白すると、この十ページの批評の肝心な箇所に来るたびに頭を抱えてしまう。これは、ほとんど私の問題だと思われるから、筑摩からでている『ベンヤミン・コレクション』の第二巻を注文して届くのを待っている。)

 

 

プルーストの再読が始まってから、何を読んでも、何を見ても、何を聴いても、私は自らにプルースト的な態度を求めている。その「プルースト的な態度」は『失われた時を求めて』を再読することによってしか培われない。『失われた時を求めて』そのものが再読を前提として書かれているが、ナボコフベンヤミンプルースト論は、『失われた時を求めて』の発する光のためのプリズムを借りるようなもので、その光が分散あるいは屈折あるいは反射する方向はプリズムによって無限である。ナボコフが「プルーストはプリズムみたいだ」と言ったように、作品そのものが既に屈折した世界であるならば、読者というプリズムの重要性はいうまでもない。読書はひとりきりの営み。しかし、他人の、それもある高みに達したプリズムを借りて覗いてみる世界は、私のプリズムに何かしらの変化を与えるかもしれない。ここに、再読に誘う批評の価値があるのではないだろうか。プルーストの世界は、再読することによってのみ、より複雑に、より深く、より新しくなっていくのだから。

 

「耳」 ジャン・コクトオ

 私の耳は貝のから

 海の響をなつかしむ

堀口大學訳『月下の一群』1952年、白水社より)

 

海の響をなつかしむように、私は再読し続けることになるだろう、永遠に……。