2022年に読んだもの

 

2023年は七日が去った。年末年始は引っ越しで忙しかったので、ようやく2022年の読書を振り返る。年始に届いたお気に入りの緑の机のうえに、去年読んだものを読み終わった順に左から並べて写真を撮ってみた。

 

  1. ドストエフスキー罪と罰
  2. ドストエフスキー『白痴』
  3. 石川啄木『一握の砂・悲しき玩具』
  4. プルースト失われた時を求めて
  5. ドストエフスキー『悪霊』
  6. ドストエフスキー『未成年』
  7. アレクサンドル・デュマモンテ・クリスト伯
  8. 石牟礼道子苦海浄土
  9. 石川淳『西游日錄』
  10. アンドレ・ジッド『狭き門』
  11. 山内義雄『遠くにありて』

 

これらは最後まで読んだ本で、読みかけのものは無数にある。何冊読んだかという数的事実には興味がないが、もう少し読みたかった。私にとっての読書は、言葉そのものの追求ということが一番にある。一字一句がすべて。言葉の連なりから継起するイメージと空間、それらが一体となって私自身と呼応する体験。それは多種多様の苦しみを浄化し、根源的な生の喜びで満たしてくれる。一言から始まり、またその一言に戻ってゆく。こうした言葉の活動に誘ってくれる文学をひとつでも多く知りたい。

 

 

2021年の暮れに『カラマーゾフの兄弟』を読んで驚愕する。ドストエフスキーには五大長編なるものがあると知った。2022年の目標のひとつは残り四つの長編を刊行順に読むことだった。やはり『カラマーゾフの兄弟』は頂点だと思うが、『白痴』と『未成年』もよかった。

 

 

2022年のもっとも大きな出来事といえば、『失われた時を求めて』を通読したことかもしれない。2020年1月11日に読み始め、2022年6月5日に読み終えた。私の一生を費やす作品になるにちがいない。「見出された時」を読み終わってすぐにまた、はじめから読んでいる。初めての通読は岩波文庫にしたが、再読は光文社古典新訳文庫高遠弘美先生訳で読んでいる。高遠先生の翻訳は日本語の最高峰だと思う。岩波文庫は2019年に全十四巻が完結しているが、光文社古典新訳文庫のほうは現在第六巻まで刊行している。今年中に第七巻が刊行される見込みで、残りも続々と刊行されてゆくだろう。これから『失われた時を求めて』を読もうとする読者には、ぜひ高遠弘美先生訳を薦めたい。高遠先生は、2022年6月から全十回の予定で月一回開講されているNHK文化センター主催のオンラインプルースト精読講座の講師を務められている。私も受講していて、講座の進捗にあわせて第一巻をじっくり読んでいる。くりかえし読んでも、時間をかけてゆっくり読んでも、いつでも、また読みたくなる。高遠先生の文章は、再読こそ愉しいプルーストの核心に触れさせてくれる稀有な翻訳です。ちなみに、プルースト精読講座は途中受講も可能なので、ご興味のある方は調べてみてください。

 

www.kotensinyaku.jp

 

 

 

山内義雄訳の『モンテ・クリスト伯』も素晴らしかった。ページをめくる手がとまらず、寝不足の日々。最後の、あの一言の力に魅了された。細かな部分も相当によいが、あの一言に含まれる重みは長編小説の醍醐味であるし、それこそ生の充足に至るものだ。

 

 

この写真は、水俣の明神崎からの眺め。石牟礼道子さんの『苦海浄土』を読んで、一時帰国中に水俣に帰る。敢えて書くが、水俣は私の生まれた土地である。この本を読むのに三週間かかった。水俣病は、昔だって今だって、私にとって現在進行形の公害だ。石牟礼さんの言葉には、彼女の引き受けたいろんなものが憑依している。石牟礼さんの作品は、もっと読まなければならない。

 

 

2023年元旦の夕暮れ。年末に海のそばに引っ越してきた。『苦海浄土』から導かれるように、海に引き寄せられたのかもしれない。いつもは計画を立てても公言しない質だが、このところある大きな夢をみるようになったので、決意とともに今年読めたらいいなと思うものを書いておきたい。言うまでもなく、高遠弘美先生の『失われた時を求めて』は常に机に置いてある。

 

 

それと、このブログのタイトルを「読書記録」から「苦海日録」に変更した(「錄」は新字に変更)。目の前に並べられた本を眺めていて、目についた二冊の書名の上下を組み合わせただけだ。「苦海」という言葉を使うことに躊躇いはあるが、石牟礼さんへの敬意と、自分に対する励ましと。

 

今年は、そこはかとなく書きつけた読書日記を、定期的に「苦海日録」に投稿しようと思っている。