【感想】高遠弘美先生連続講座「『失われた時を求めて』で挫折しないために」第2回

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やさしさを含んだいくつかの問題提起

一般財団法人出版文化産業振興財団(JPIC)がオンライン上で開催する高遠弘美先生の連続講座「『失われた時を求めて』で挫折しないために」第2回を受講したので、感想を綴る。

 

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第2回講座のタイトルはプルーストの文体に慣れる】である。

 

第1回よりさらに刺激的で心揺さぶられる内容だった。既に通しで3回も視聴し、後半のフランス語と日本語での読みの実践部分は、さらに繰り返し聞いていて、もう5回は聞いただろう。何度も聞きたい回である。冒頭、高遠先生は「今日の授業について、少し問題発言のようなものをはさむかもしれません」「予めご容赦を」と発言された。その発言に期待をしたとおり、先生の挑戦的な問題提起とその延長線上にある愛のこもった読者へのやさしい励ましが絶えず折り重なり、先生のお言葉を正確に書き留めるために動画を止めて聞き直すことが何度もあった。動画を視聴する最中から『失われた時を求めて』を読みたくなってしまう、「挫折」に正面から向きあう講座であったと思う。有料講座なので情報を制限しつつ、私が思う見どころを述べる。

 

 アイコン化されたプルーストの顔

まず、第1回講座の参考文献として挙げられた『プルーストへの扉』を引用しつつ、失われた時を求めて』の語り手はプルーストではないことを強調された。プルーストが経験した現実の出来事と『失われた時を求めて』で描かれることを結びつけて考える流れがあるが、それはプルーストといえばでお馴染みのプルーストの顔が誤解のもとになっているのではないかという高遠先生の問題提起である。このある意味でアイコン化された顔が生み出してきた話題性のあるいくつかの事柄は「言葉の世界を離れた現実の事物で代替させるファン気質というべきもののなせる技」と一刀両断される。清々しい指摘である。ただそれだけで終わらせないのが高遠先生。ご自身の過去のお話を交えてそれを反面教師にしながら、「文学っていうのはやっぱり言葉の世界を自分のなかに再構築していく読書という行為だと思うんですね」「言葉だけの世界に向かっていただければと思います」と仰る。読書における読者として備えるべき根本的な信念であると思うが、当たり前のことであるがゆえに抜け落ちてしまうことがある。『失われた時を求めて』に限らずだが、まずこの基本姿勢をいま一度自分に問うてみることから始まる。

 

更新されつづけるテキスト

第1回講座でも指摘があった『失われた時を求めて』の現代性について、今回は様々な版を整理しながらその変貌を眺めた。『失われた時を求めて』は全7篇からなるが、5篇以降は死後刊行である。そのため、特に5篇以降はテキストの決定に議論があり、絶えず更新されている。いくつかの代表的な版があるが、この先も増えていくことが予想される。翻訳で読む際には、自分がどの版を読んでいるのかを知ること、それが絶対ではないことを頭に入れておくといいと思う。日本語で読む読者のために、代表的な日本語訳が基本的に底本としている版を下記にまとめる。

 

  • ガリマール版(1919-1927):新潮社のグループ翻訳
  • プレイヤード版【3巻本】(1954):井上究一郎
  • プレイヤード版【4巻本】(1987-1989):鈴木道彦訳、吉川一義

 

ちなみに、2008年に刊行された高遠弘美訳『消え去ったアルベルチーヌ』(光文社古典新訳文庫)は、1987年にグラッセ社から出版されたものを底本にしていて、それはプルーストの手が最後に入ったものとして新たに発見された原稿である。ただし、光文社古典新訳文庫で現在刊行中の高遠先生の個人全訳は、プレイヤード版【4巻本】を基本的に底本としている。

 

www.kotensinyaku.jp

 

研究と読書は別もの

一人の読者として作品を楽しむとはどういうことだろうか。1913年のグラッセ版の初稿ゲラに残されたプルーストの推敲の跡を見た後に、高遠先生は研究の立場にありながらこう問うた。「プルーストの読書ということと、こういう、どういうタイトルだったか、それがどう変わったかというふうな比較の研究、それは研究としてはもちろん意味が大いにあると思いますし、重要だと思いますが、読者という立場からして、こういう知識は必要でしょうか」。先生の答えは、否である。さきほどのプルーストの顔の話にも通じるが、まずテキストが先にあるという考えである。「まずは、読者として、そこに書かれた言葉に素直に向かいあう」ことが重要であると仰った。「言葉に素直に向かいあう」とはどういうことだろうか。大作を前に素手で立ち向かっていくことは、ともすれば恐れになるかもしれない。しかし、こちらが生身でなければ、きっと言葉の世界は広がっていかないのだろう。スノッブ的な気持ちや、小手先の知識にふりまわされるようではいけない。読書は、自分の鏡である。言葉の前に、現在の自分のすべてでもって、自然体に、真摯に向きあわなければならないと思った。自分の向きあい方一つで、見えるのものは違ってくるはずである。

 

プルーストの文体に慣れる

前節で、正面から言葉に向きあうことの大切さが説かれたが、では、実際に、その先にはどんな世界が待ち受けているのだろうか。その世界を覗かせてくれるのが、第2回講座の山場である。『失われた時を求めて』の冒頭と有名な紅茶とマドレーヌの挿話の部分を、高遠訳の日本語と原文(フランス語)を交互に聞きながら、高遠先生がご自身の読みを披露してくださったのである。まさに、今回の講座タイトル「プルーストの文体に慣れる」の実践である。具体的な読みの例を挙げることは控えたいが、実にいろんな角度から「生き生きとした感じ」「多層化」「リズミカル」「しまった文体」等、読みの味わいが提示され、先生と一緒に読む楽しみをつまみ食いしているようで、贅沢なひとときであった。特に時制の話は興味深く、時制が文体的な精彩と密接に関わっているという指摘は、面白さでもあり翻訳の難しさも想像された。講座は単回でも購入することができるので、大袈裟ではなく、言葉を愛する人すべてに、第2回だけでも購入することを勧めたい。

 

おわりに

失われた時を求めて』には、その作品またはプルーストをめぐって様々な先入観がひとり歩きしている感がある。一部を切り取っただけでもこんなに力があるのだから、この作品がいかに生きているのかがわかるだろう。高遠先生は、今回の講座のなかでこう仰っている。「決して焦ることはない」「読書というのは非常に個人的な営為」。そう、『失われた時を求めて』は逃げるわけはないし、いつでもそこに待っている。先生は今回もまた、愛でもって励ましてくださった。視聴の最中から、すぐにでも『失われた時を求めて』を読みたくなる講座であったとともに、プルーストの文章がいかに洗練されていても、それを楽しむ私の姿勢と実力が伴わなければ、味わい尽くすことはできないと、居住まいを正すばかりの豊かな時間であった。「言葉に素直に向かいあう」時間を積み重ねれば積み重ねるほど、きっと見える世界も彩りを増すのだろう。今夜も、『失われた時を求めて』を開くことにする。

 

第3回の講座は、3月27日(土)「なぜ『失われた時を求めて』を読むのか」(予定)である。次回講座で最終回となる。