【書評】『プルーストへの扉』(ファニー・ピション著/高遠弘美訳)

プルーストへの扉』(ファニー・ピション著/高遠弘美訳)

 

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プルースト生誕150年記念のひとつとして今年1月22日に上梓された『プルーストへの扉』(ファニー・ピション著/高遠弘美訳)を読んだので、読みどころと感想を綴る。

 

本書の概要

本書のフランス語原題は『Proust en un clin d'oeil!』で、直訳すると「プルースト早わかり」である。その名の通り、プルーストの濃縮されたエッセンスを効率よく享受することができる、プルースト超初心者、初心者に適した案内本であると思う。私は現在『失われた時を求めて』の「ゲルマントのほう」を読み進めているところで、プルースト関連本はこの本が初めてである。そんな私でもとても愉しく読めたので、プルーストに向かうすべての人に薦めたく、この記事を書くことにする。

 

本書は、下記の通り三部構成になっている。

 

  1. マルセル・プルーストとはどういう人間だったのでしょうか」
  2. 「なぜプルーストを読むのでしょうか」
  3. 「そう、プルーストは読めない作家ではありません」

 

とてもわかりやすい見出しである。云うなれば、第一部でプルーストの人生を「早わかり」、第二部で『失われた時を求めて』を「早わかり」、第三部でプルーストの文体を「早わかり」である。順に、読みどころを述べていく。

 

プルーストの人生早わかり

第一部では、プルーストが生まれてから亡くなるまでを時系列でざっと追っていく。人物年表を眺めているようなスピード感でありながら、年表の無味乾燥さからは程遠く、プルーストを身近に感じることができる。

 

プルーストの代表作は、言わずと知れた大長編小説『失われた時を求めて』である。代表作と言うのだからそれ以外にも書いているのだが、『失われた時を求めて』の影に隠れて話題になることはあまりない印象である。しかし本書では、プルーストが文学的にデビューしてから『失われた時を求めて』を出版するまでの作品やそれにまつわる裏話に丁寧に触れられており、初心者には新鮮な内容であった。

 

プルーストの人生、プルーストの人となりを知れば知るほど『失われた時を求めて』に浸透しているプルーストその人の断片が浮かびあがってくる。しかし、主人公の語り手はあくまでも小説のなかの人物で、プルーストではない。プルーストという人物の知識は読書の質を左右するものではないと思う。ただ、プルーストという人に触れたことによって、『失われた時を求めて』は語り手の人生、人ひとりの人生そのものであるということが腑に落ちた。

 

印象に残った話を引用する。

 

失われた時を求めて』はただ一冊からなるはずでした。全体でひとつだからです。しかし、さまざまな時代に建築された痕跡を今に残す教会や宮殿がそうであるように、この作品は内部から膨張を続け、出版上の理由から最終的に七篇になりました。

 

ここに『失われた時を求めて』を読み通すひとつの醍醐味があると思う。第一編「スワン家のほうへ」と同時期に、最終篇「見いだされた時」の多くの草稿が書かれていたのである。

 

失われた時を求めて』早わかり

第二部では、『失われた時を求めて』の実際の文章をふんだんに引用しながら、主要な登場人物、主要な問題がとりあげられる。「なぜプルーストを読むのでしょうか」という問いに簡潔にいくつもの回答が用意されていて、舗装された抜け道のようである。しかし、依拠しているのは原文そのものであり、原文に対する敬意が感じられる。そのため、言い切りの回答はひとつの見方として自分の引き出しに快くしまうことができる。

 

引用されている文章は、光文社古典新訳文庫にて『失われた時を求めて』を個人全訳中で、本書の訳者でもある高遠弘美先生の訳文である。これが本当にすばらしい。私は岩波文庫吉川一義訳で読み進めているのだが、高遠先生の訳文を今回初めて読んで、即惚れてしまった。高遠訳で図らずも一部を再読する機会に恵まれたわけだが、初読時と現在の自分の状況がかなり違っているせいもあると思うが、スワンの見方が180度変わるという体験をした。高遠先生の訳は懐が深い。立ち止まることに寛容である。むしろそれを奨励しているかのようである。自分にひっかかった言葉を何度も反芻しているうちに、語り手の物語のはずが、いつのまにか私自身の物語になっているのである。異なる訳者で読んだことのある人も、高遠先生の訳を覗いてみるためだけに本書を手に取る価値があると思う。

 

ただ、個人的に本書の残念なところは、『失われた時を求めて』の各々の登場人物のネタバレである。そもそも筋を追う物語ではないが、まっさらな状態で読みたい人にとっては過剰な情報になるかもしれない。もちろんそれを知ったからと言って、読書の味わいが減るものではないと思う。

 

プルーストの文体早わかり

第三部では、『失われた時を求めて』の「花咲く乙女たちのかげに」の一節が引用され、どのように読めるかという点から分析される。たった4ページの引用だが、プルーストの文章がいかに多面的で練り上げられているかがわかる。第三部は11ページと短い章だが、このプルースト実践篇を最後に設けているところが、これからプルーストに向かっていく読者の背中をそっと押しているようで、親しみのもてる本になっている。

 

訳者あとがき、三種の付録

原書にないものとして、最後に、訳者あとがきと三種の附録がある。

 

https://twitter.com/Thouartmore/status/1352807544935223299

 

三種の附録とは、「文献目録」「プルースト関連年表」「本書に登場する固有名詞索引」の三つのことで、上記の高遠先生のツイートの通り、先生自ら用意されたものである(ちなみに一緒に写っている小さな本が実際の原書である)。この附録は、プルーストを読み進めていくうえでも重宝するであろう貴重な手引きである。コンパクトにわかりやすくまとめられている一方、その内容の濃さに震えるだろう。

 

そして、私が本書を読んで最も心動かされ、大きな収穫となったのは、訳者あとがきである。少し個人的なことになるが、私にとってとても大きい出来事となったので、恥を忍んで書く。

 

読者ひとりひとりが『失われた時を求めて』を読む理由を考え続けること。そこに新たな読書の可能性が生まれます。挫折や未読といった言葉に惑わされることなく、虚心坦懐に作品に向かうとき、読者の目の前に拡がるのはのびやかで自在に変貌する光景のはずです。

 

私が『失われた時を求めて』を読み始めたきっかけは、スノッブ的な野心からである。小説を読むのは年に数冊という読書にあまり熱心ではなかった私が30歳をむかえ、仕事を辞め、残りの人生を考えたとき、小説に時間を費やさなければきっと後悔するだろうと思い、30歳の誕生日をきっかけに、海外文学はほぼ読んだことがなかったが、挑戦したいという気持ちで『失われた時を求めて』を読み始めた。しかし、第4巻の途中で、今までの人生のなかで最大の幸せと最大の悲しみが同時に訪れた。最大の幸せは娘が生まれたことで、最大の悲しみはパートナーの裏切りである。とりわけ後者はとても辛く、私の直近10年が言葉通り失われてしまった。『失われた時を求めて』を再開できたのは9ヶ月後だったが、再開しても、後悔や悲しみの気持ちを抱いたまま、安全地帯を求めるように、ただただ語り手の語りに耳を傾けることしかできなかった。高遠先生の言葉を自分に問いかけ、ここ数日ずうっと考えていた。私は何のために読んでいるのか、と。今のところ、私は、私の失われた10年を取り戻したい、その10年は私にとって何だったのかを理解したい、これからの人生をよりよく生きていきたいからだと思う。高遠先生は「考え続けること」と仰っている。そう、『失われた時を求めて』は、人生のどの時点で読むかで見える光景が自在に変貌する。誰にとっても自分の物語になりうるし、どんな自分でも受けて入れてくれる物語なのである。また、高遠先生が「読書の可能性」と仰るのは、常に作品と自分自身に真摯に向かい、考えて考えて考えてそのとき何かしら生み出されたものが、その人にとって「新たな」ものであり、それは人生に大きな影響を与えるほどの熱と力をもつものになるかもしれないということだと勝手ながら解釈した。ここで、本書で言及されたプルーストの読書理論なるものを引用して自分語りは終わりにしたい。

 

読書は、読者がひとりで考える足がかりとして役に立つはずの一時的な受動の時間であるというものです。

 

終わりに

本書は、プルーストの濃縮されたエッセンスを効率よく享受することができる、プルースト超初心者、初心者に適した案内本であると同時に、第三部の『失われた時を求めて』の文章分析や、訳者である高遠先生の『失われた時を求めて』の訳文、あとがき、附録は、既に『失われた時を求めて』を通読した者にも相当に唸る内容になっていると思う。プルーストと高遠先生がともに、プルーストに向かう読者を励ましてくれる、そんな本になっている。プルーストへの扉は、みなに開かれている。

 

【参考文献】

ファニー・ピション著/高遠弘美訳 (2021)『プルーストへの扉』白水社.