【感想】高遠弘美先生連続講座「『失われた時を求めて』で挫折しないために」第1回

贅沢な100分間

昨夜は、興奮してなかなか寝つけなかった。

そして、目覚めてからも、なにやら熱っぽい。

 

娘を寝かしつけた後の21時頃から、一般財団法人出版文化産業振興財団(JPIC)がオンライン上で開催する高遠弘美先生の連続講座「『失われた時を求めて』で挫折しないために」第1回を受講したからだ。1時間41分、パソコン画面に釘付けになった。

 

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2021年は、プルースト生誕150周年。

 

この記念の年に企画された本講座の第1回は、高遠先生のプルーストならびに『失われた時を求めて』に対する熱さで圧倒され、私もまた、熱されてしまった。

 

プルーストに少しでも興味のある方には是非とも受講をおすすめしたく、有料講座なので内容に配慮しながら、受けとった熱を書きとめておこう。鉄は熱いうちに打て。ちなみに、私は『失われた時を求めて』の通読に挑戦中で、いまは第7巻の途中である。

 

プルースト生誕150周年

本講座は全3回を予定されていて、第1回は2月20日(土)に開催された。

 

2月22日(月)から1ヶ月程度、見逃し配信があるので、リアルタイムで視聴できなかった人を含め、受講者は自分の都合のよい時に何度でも視聴することができる(これから申し込みをする方でも、期限内であれば第1回の見逃し配信を視聴することができるそう)。

 

第1回の講座タイトルは、【「スワン家のほうへ」からすべてが始まる】である。

 

プルーストは、1871年に生まれ、1922年に亡くなった。つまり、今年2021年は生誕150周年、来年2022年は死後100年なのだ。

 

講座冒頭、今年、来年とプルーストの盛り上がりを予感させる、出版予定の書物や開催予定の展覧会等のお話から始まった。はやくも、プルーストの足音が近づいてくるような気がした。愉快な祭典の始まりにふさわしい幕開けである。

 

貴重な原書紹介

第1回講座では、たくさんのフランス語の原書をカメラ越しに見ることができた。

 

失われた時を求めて』の第一編である「スワン家のほうへ」の様々な版元の原書に始まり、プルーストが『失われた時を求めて』以前に出版した『楽しみと日々』(1896)『アミアンの聖書』(1904)『胡麻と百合』(1906)等である。

 

とりわけ印象的だったのは『楽しみと日々』で、これは1896年に自費出版されたものなのだが、冊子を包む、くすんだ青に紫が波打ち、雪化粧をした桜を思わせる白とピンクの点が散りばめられた上品なカバーは、内側にムンクの『叫び』の背景を思わせるマーブル模様が施されていて、さらには同じ花柄をあしらった上等な箱つきである。プルーストの美に対するこだわりだろうか。だがそれだけではない。本書には繊細な挿絵や、プルースト自作の詩に曲をつけた楽譜もついている。この贅沢な本に、カメラ越しにうっとりした。

 

個人的に、冊子カバーの内側のマーブル模様は、フィレンチェのIL PAPIROのマーブル紙を彷彿とさせ、新婚旅行の思い出が蘇った。記憶というのは、いつもふとしたきっかけで側に腰かけてくるものである。

 

高遠先生の朗読

第1回講座では、高遠先生自らいくつかの文章を朗読された。とても濃密な時間であった。また、先生のフランス語の発音は美しく、心地よかった。

 

福永武彦の「プルースト百年祭」という文章の朗読では、「プルーストの年譜を見ると、この人は死後もなお生きているという印象を強く受ける」という一文を強調されていた。

 

そもそも代表作『失われた時を求めて』全7篇のうち、5篇以降は遺稿を整理して死後に刊行されたものであるし、いまなお未発表作品が刊行される稀有な作家である。プルーストが「生きている」と実感できるのは、高遠先生をはじめ、プルーストを探究しつづける研究者の方々のおかげであり、一人の読者として心から感謝している。

 

「スワン家のほうへ」からすべてが始まる

失われた時を求めて』第1篇「スワン家のほうへ」の初稿ゲラも見ることができた。紙の継ぎ接ぎや書き直し書き足しの筆跡が推敲の証しを残している。

 

「スワン家のほうへ」は、いくつかの出版社に断られた後、1913年にグラッセという出版社から自費出版で刊行されているが、そこに予告として記された構想は、実際に生きている。この時点で、小説の構想はかなり練られていたのだろう。

 

6年後の1919年に「スワン家のほうへ」の改訂版が出されたとき、内容に関する訂正はほとんどなかったということである。初稿ゲラとあわせて考えてみると、推敲の作家であると思われる。『失われた時を求めて』の日本語訳は、400字詰め原稿用紙1万枚にも及ぶといわれる大長編であるわけだが、この練られた文章を、大切に大切に味わっていきたいとあらためて思った。

 

二つの鼻母音、メビウスの輪の留め金

本講座で私がもっとも感動したのは、『名作はこのように始まるⅠ』に収められた高遠先生の「スワン家のほうへ」書き出しの考察である。

 

「スワン家のほうへ」の原書の書き出しは、「longtemps(長い間)」から始まる。そして、結語は「dans le Temps(時のなかで)」である。この二つの単語は、それぞれ二つの鼻母音が含まれているという特徴がある。IPA表記にて発音を可視化してみると、

 

「longtemps」→「/lɔ̃.tɑ̃/」

「dans le Temps」→「/dɑ̃/ /lə/ /tɑ̃/」

 

となる。「~」が鼻音化を表している。発音してみると、両者のひびきが共鳴しあうのがよくわかる。高遠先生は、この二つの語の結びつきについて、冒頭の「longtemps(長い間)」の鼻母音のくぐもったひびきは「その後の眠りと夢の森のなかを手探りですすむ主人公の最初の姿を暗示」していて、結語の「dans le Temps(時のなかで)」は「最後に小説を書こうと決意する「私」が最初にもどって、〈longtemps〉と書き出す円環構造を決定づけている」と指摘している。そして、それぞれ二つの鼻母音の結びつきを「メビウスの輪の留め金」にたとえている。原書に明るくない私は目からうろこの指摘であった。プルーストは、「longtemps(長い間)」と初めの一語を書いたとき、「dans le Temps(時のなかで)」で締めくくると決めていたのだろうか。なんと素敵なしかけだろう。私は、高遠先生が言葉のひびきから読みとったこのしかけに深く胸を打たれた。高遠先生のプルーストに対する愛を感じるとともに、誤解を恐れずに言うと、先生もまた読者なのだと思った。プルーストはきっと言葉のひびきにまで配慮していたはずだ。深く入っていった者だけに気づくように、待っているようだ。

 

また、高遠先生独自の考察として、冒頭の「de bonne heure(早い時間に)」は「de bonheur(幸福に)」と音が同じであるという話があった。「過去を全体的に蘇らせることのできた「私」はどこかで「幸福な」思いを味わっているはず」だから、この音の一致は意図したものであるかもしれないという指摘である。本当のところはわからないが、これもまた、素敵な読みであると惚れ惚れした。高遠先生の知識と探究に裏打ちされた解釈を存分に教授できる、大変貴重な講座であることは間違いない。

 

私の個人的な宿題

第1回講座の参考文献として、ファニー・ピションの『プルーストへの扉』が挙げられている。本書もプルースト 生誕150周年記念の一つとして、高遠先生訳で2021年1月に刊行されたばかりである。私は、この本を日本から取り寄せ中であるが、今年はプルースト関連本も読み進めていきたいと思っているので、まずはこの本を読むことを1つ目の宿題とする。とても楽しみに待っている。

 

www.hakusuisha.co.jp

 

現在、岩波文庫版の『失われた時を求めて』にて通読に挑戦中である。第7巻の途中であるが、まずは岩波文庫版で通読を目指し、その後、光文社古典新訳文庫で刊行中の高遠先生訳を手にとりたいと思う。

 

www.kotensinyaku.jp

 

今回の講座を受講し、翻訳という行為に非常に関心がでてきた。前々から頭の片隅にはあったが、高遠先生の情熱を前に、このような仕事ができたらどんなに素晴らしいだろうと思った。私は現在タイに住み、タイ語で生活しているが、生活言語とはまた違ったタイ語を覗くべく、タイ文学をタイ語で読んでみようと思う。先生には到底およぶものではないし、時間だけが全てではないが、先生はプルーストに出会って約50年になる。私も私の50年先に期待しながら、いまから始めてみるのも遅くはないかもしれない。

 

おわりに

本講座のタイトルは「『失われた時を求めて』で挫折しないために」である。「通読のために」「完読のために」ではなく、「挫折しないために」は、高遠先生の導きをよく表している。『失われた時を求めて』を読んだことない人にも、読んでいる最中の人にも、読み終わった人にも、再読中の人にも、すべての人に、プルーストへの扉は開かれている。プルーストがそうであるように、高遠先生もまた、寄り添うように励ましてくれる。この貴重な機会がより多くの人に届くことを願い、プルースト読者がひとりでも増えると嬉しい。

 

第2回講座は、3月13日(土)「プルーストの文体に慣れる」(予定)である。

 

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